炎が迫る中、指の爪が剥がれても地面を素手で掘り続けた女性。亡骸の下にあったものを見て、学生達はただ涙した

76年前の今日深夜、東京の街並みは炎の海に包まれました。昭和20(1945)年3月9日深夜から10日未明に発生した東京大空襲(下町大空襲)です。

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上空から降り注ぐ大量の焼夷弾により、木造住宅が密集する大都市東京はたちまちにして業火燃え盛る地獄絵図と化しました。

FIRE DEMON

東京・下町の広範囲に次々と焼夷弾が集中投下され、大規模な火災旋風が発生。逃げ惑う人々の行く手を炎が遮りました。2時間足らずの空襲により、約10万人の犠牲者を出した東京大空襲。亡くなった人々の多くは兵士ではない民間人でした。市井の人々のささやかな幸せが一夜にして焼き尽くされ、永久に奪い去られたのです。

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空襲後、文字通り焦土と化した東京の街並みにはいたるところに焼け焦げた犠牲者の亡骸が見られ、あまりにおびただしい犠牲者数に火葬が追いつかず、収容された亡骸の多くは仮埋葬されました。上野公園や錦糸公園、隅田公園等の大きな公園に仮埋葬された亡骸は7万2439体と言われています。そんな7万2439人のうちの一人として仮埋葬されたある女性のエピソードを紹介します。

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「花があったら」

〔以下、引用〕

昭和20年3月10日の東京大空襲から三日目か、四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。

永代橋から深川木場方面の死体取り方付け作業に従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。

午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。 頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変わりはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。 着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。

その人は赤ちゃんを抱えていた。さらに、その下には大きな穴が掘られていた。

母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、爪は一つもなかった。その人はどこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。

私の周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。どの顔も涙で汚れゆがんでいた。一人がそっとその場を離れ、地面にはう破裂したちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。 若い顔がそこに現れた。

ひどい火傷を負いながらも、息のできない煙に巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。これはいったいなぜだろう。美しい顔であった。人間の愛を表現する顔であったのか。

だれかがいった。 「花があったらなあーー」あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。私たちは、数え十九才の学徒兵であった。

〈出典:1970年12月29日付朝日新聞掲載より。元学徒兵として被災処理に当たっていた須田卓雄さんの体験談〉

Sakura

迫り来る炎に、死を覚悟した母親がせめて我が子だけでも、と身を呈して炎から守ろうとした様子が伝わります。子を想う母の愛、母性の究極ともいうべき行為に心を打たれる悲しいエピソードです。

約10万人という大量の数字に「東京大空襲犠牲者」として一括りに捉えがちになりますが、亡くなった人々一人一人にそれぞれの物語が、人生があったのです。

日本に限らず、過去の大戦により世界各地で人々のささやかな日々の幸せが奪われ、尊い命が犠牲となりました。戦争により一般の市民がいかに犠牲を被るのかという事実を教えてくれる母子の物語。過去の悲惨な体験から学び、戦争の悲惨さを後世に受け継ぐことの大切さについて改めて考えさせられます。

 

プレビュー画像: ©️flickr.com/jonel hanopol

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