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アンビリーバボー

23歳女性記者はアメリカで最も恐れられた精神病院に自ら10日間入院する

この世の中には、どんな障害が立ちはだかろうとも、毅然と立ち向かい懸命に努力し夢を追い続け、必ず目的を果たす人たちがいます。

ジャーナリストで冒険家のネリー・ブライはそんな一人。近年多くの若い女性の間で、ロールモデルとして、また勇気を与える存在として尊敬を集めています。

1864年、アメリカのペンシルバニア州の田舎にエリザベス・コクランとして生まれたネリーは、厳しい環境で育ちました。父親がこの世を去ると、10代のネリーは残された14人の兄弟と母親を支えようとお金を稼ぐ方法を探していました。そして教師としての勉強を開始したものの、資金不足から諦めざるを得ませんでした。

しかし幸いにも彼女の才能は埋もれることはありませんでした。1885年、ネリーはピッツバーグ・ディスパッチ紙に掲載された「女性は料理と育児しか能がない」という当時物議を醸したコラムを目にします。怒りに燃えた若いネリーが新聞宛に熾烈な反論を送ると、この反論文に非常に関心したという編集者からの推薦で正社員としてリポーターに雇用されます。そして「ネリー・ブライ」というペンネームで、貧困、改正が求められていた離婚に関する法律、工場でのひどい労働環境などの社会問題について記事を書き始めました。

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社会のある一面に鋭い批判を加えるネリーの明快なリポートは大反響を呼びました。熱心な取材活動を続けたネリーは、国内での名声を手にし、ほどなくして当時全米で最も権威のあった新聞の一つ、「ニューヨークワールド」での仕事を獲得しました。ここでネリーは、彼女のジャーナリストとしてのキャリアでおそらく一番の大スクープを納め、調査報道の基礎を築きます。

1887年当時、「ニューヨーク市精神病院」には長年にわたり恐ろしい噂が立っていました。クイーンズとマンハッタンの間を流れるイースト川の土手にあった病院の元従業員たちは、患者が劣悪な状態に置かれており、病院が組織的に患者に虐待を加えていたことなどを明らかにしていましたが、誰もその悪行を暴いた人はいませんでした。内部で行われていることを明らかにする方法はただ一つ、精神病患者と偽り、覆面捜査員として入院するしかありません。

ネリーが入院してから10日間経ったら、同僚たちが退院の手続きをすることになっています。それでも悪名高い病院のドアの向こうに消えていくのはとても恐ろしかったに違いありません。ネリーが門番にここはどんなところかと尋ねると、ここは狂人用の施設で逃亡のチャンスはないという答えが返ってきたそうです。

病院の環境はネリーが予想したよりもはるかに劣悪でした。この悪名高い施設は、定員の2倍にもなる1,600人もの患者を収容していました。患者には古くなったパン、薄いおかゆ、腐った果物が食事として与えられ、水を替えない浴槽で1週間に1度だけ水浴びが許されていました。ネズミが建物全体に巣食っていました。

病院の従業員は日常的に患者に、殴る、縛る、蹴るなどの虐待を繰り返していました。患者の中には髪の毛を引っ張られ氷水のような冷たい水に頭を突っ込まれる人さえいました。

医師に訴えても、精神病を患っているからと聞く耳を持ってもらえません。もし勇気を出して訴えたことが知れ渡れば、怒った従業員から恐ろしい報復が待っています。

患者の症状を治療しようという人はいませんでした。入院するとすぐにネリーは、芝居をやめて普通に行動し始めました。しかしこの変化を回復の兆候だとみなす人はいなかったそうです。そしてネリーによれば、入院していた患者の中には、実際精神病を患っているのではなく、ただ英語が話せないという人や、貧困や体調不良で身の回りの始末ができなくなったというだけの人が多くいたそうです。

10日が経ち、ネリーの会社の顧問弁護士が精神病院に対し、法的措置も辞さない構えでネリーの即時解放を求めました。もし「ニューヨークワールド」が介入しなければ、ネリーは2度と日の目を見ることはなかったかもしれません。ネリーの正常な行動にもかかわらず、担当医はネリーは狂人だと主張し続けていたのです。

解放されたネリーは、世界に彼女の名を轟かせることとなったリポート「精神病院での10日間」を書き上げます。このリポートは大きな議論を巻き起こし、その後この精神病院は当局による徹底的な捜査を受けることになりました。責任者は訴追され、公的運営資金は増額されたため、患者の入院環境はゆっくりと改善し始めました。

ネリーはその後も冒険家、作家として、そして労働者の権利獲得闘争に人生を捧げました。世界的に名を馳せたネリーの著作は多くの読者を獲得し、多くの若い女性を彼女の後にと駆り立てました。

1922年、ネリーは第二の故郷ニューヨークの自宅で57歳で肺炎でこの世を去りました。亡くなる2年前、ネリーが生涯をかけて闘った婦人参政権運動が実り、アメリカで女性の参政権が認められました。

ネリー・ブライは退屈とは無縁の刺激的な人生を生きた素晴らしい女性でした。社会で抑圧される人々の立場に立って闘い続けたネリーの功績は、これからも忘れられることはないでしょう。

プレビュー画像:©︎Facebook/Women’s Rights News, ©︎Facebook/Grave Matters

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