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えらい

この米軍兵士たちは 史上 “最も偉大な栄誉”を手にした。しかし帰国後 彼らを辱めが待ちうけていた。

1941年12月8日、日本軍はアメリカ・ハワイの真珠湾に攻撃をしかけ、太平洋戦争が勃発。これに対しアメリカ政府は、日系アメリカ人や日本人移民が日本のスパイになることを恐れ、彼らを敵性外国人に指定。西海岸に住んでいた12万人を超える日系アメリカ人をアメリカ全土の11か所に設けられた強制収容所に隔離収容することを決定します。

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こうして西海岸在住の日系アメリカ人たちは住み慣れた家を追い出され、仕事や財産を全て失い、砂漠地帯や人里離れた閑地に作られた強制収容所に入れられることとなったのです。鉄条網に囲われた米国各地の収容所で、日系アメリカ人たちは冷房も暖房もない木造のバラック小屋での生活を強いられ、劣悪な衛生環境の中、集団食中毒や下痢が蔓延することも少なくありませんでした。

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しかしそれから1年半が過ぎたころ、アメリカ政府は強制収容所で暮らす日系アメリカ人に兵役への参加を求めてきます。戦局の激化に伴い、戦力の増強を図るのがアメリカ軍の狙いでしたが、収容所に入れられるという屈辱を味わった日系アメリカ人の多くは、これを「志願兵となることでアメリカへの忠誠心を示す良い機会」と捉えたのです。

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こうして、強制収容所の収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成された「第442連隊戦闘団」が生まれました。442連隊はヨーロッパ戦線に投入され、1943年にはイタリアに上陸し、ドイツ軍を破りながら北上、さらにフランスへと転戦し、戦争末期にはドイツ本国へも送られました。

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日系人部隊の任務は、アメリカ陸軍のほかのどの部隊と比べても過酷なものでした。軍上層部は彼らを「捨て石」と捉えており、前線に送られて犠牲になってもやむを得ないとの見解だったからです。このことは442連隊に従軍していた将兵の戦死・負傷者数を見れば一目瞭然で、その死傷率はほかの部隊に比べ、なんと3倍にも達しました。

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そして1944年10月24日、442連隊にとって最も厳しい任務の遂行命令が下されます。それはドイツ軍に包囲された、211人の味方の白人兵士たちを救出するというものでした。第442連隊戦闘団はドイツ軍との激しい戦闘の末、なんとか白人兵士達の救出に成功。しかし、211人の白人兵士を救出するために442連隊の216人が戦死し、600人以上が手足を失うなどの重傷を負う悲惨な事態となり、これはアメリカ軍で人種によって命の重さが異なることを表すものでした。

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それでも日系アメリカ人兵士達は矛盾だらけの戦場で戦い続けました。「自分たちはアメリカ人国民なのだ」ということを、いつか同胞に理解してもらえると信じていたからです。戦争末期の1945年4月、第442連隊戦闘団が命じられたのはドイツ南部のミュンヘン近郊にあるダッハウ強制収容所の解放という重要な任務。強制収容所の内部に足を踏み入れたとき、442連隊の兵隊の多くは故郷に残した家族のことを思い浮かべたといいます。

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ナチスドイツからユダヤ人を救出するために自由と平等の国から来たにも関わらず、彼らの故郷は憲法を破り、人権を無視して自国民を鉄条網の後ろに閉じ込めているということに矛盾を感じていたはずです。

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戦後、第442連隊戦闘団はその活動期間と規模を比較して「アメリカ合衆国軍事史上最も多くの勲章を受けた部隊」となり、歴史に名を残すことになります。

1946年にはトルーマン大統領からも「諸君は敵のみならず偏見とも戦い、勝利した」と讃えられますが、戦後も日系人への人種差別に基づく偏見は変わらず、アメリカの故郷へ復員した兵士たちに対し「ジャップを許すな!」「ジャップお断り」といった心無い言葉を投げかけられたり、仕事に就くこともできず、強制収容の際に失った財産や家も失われたままという屈辱を強いられた日系アメリカ人が後を絶ちませんでした。

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日系人の強制収容に対する公式な謝罪と補償がアメリカ政府からあったのは、それから40年もの歳月を経た1988年のこと。9・11同時多発テロの直後に、アラブ系アメリカ人を収容しようという声がアメリカ全土で高まったときには、日系人コミュニティが「真珠湾攻撃の後、私たちのおじいさん、おばあさんに起きたことと同じだ!」と声をあげて、この動きに歯止めをかけたという逸話があります。

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現在アメリカ陸軍では、第442連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業が必修課程となっているそうです。厳しい偏見と差別に耐えることができた彼らだったからこそ、このような偉大な功績を成し得たのかもしれないと思うと、胸を締め付けられるような思いがします。