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【ゾッとする真実】「オズの魔法使」で虹の彼方にを天真爛漫に歌うドロシー しかし映画の裏事情を知り背筋が凍った

アメリカで史上最も多く鑑賞された映画として知られる「オズの魔法使」。ファンタジー系のミュージカル映画の傑作として、1939年の公開から80年以上を経た今なお多くの人々を魅了し続けています。

劇中で主演のジュディ・ガーランドが歌った「虹の彼方に」は大ヒットを記録し、アカデミー歌曲賞を受賞。Somewhere over the rainbow の歌い出しがあまりにも有名なこの歌はジュディ・ガーランドにとって生涯の持ち歌となりました。

 
冒頭とラストのカンザスのパートのモノクロ撮影を除き、魔法の国オズのパートは当時まだ極めて珍しかったカラーフィルムで撮影。最先端の撮影技術により色鮮やかに描き出された魔法の国の映像演出は当時高く評価されました。
陽気で優しい仲間たちと出会い、励まし合いながら旅をするドロシーの成長を描いた夢と希望に溢れた物語。まさにファンタジー映画の王道ともいえるこの映画ですが、その輝かしいきらめきに満ちた舞台の裏には、実は生々しい欲望に溢れた世界が広がっていたのです。

天真爛漫にドロシーを演じたのは当時17歳のジュディ・ガーランド。もともとは当時天才子役として名を馳せたシャーリー・テンプルがドロシー役の有力候補でしたが、契約する配給会社の問題で運良くジュディに役が回ってきます。赤毛のお下げ髪に青のチェックのドレス、可憐にドロシーを演じたジュデイはアカデミー子役賞を受賞。一躍人気スターとなります。

純粋で愛らしいドロシー像を見事に体現したジュデイ、しかしその実生活は可憐で清楚な外見とは裏腹に、乱れきったものでした。

幼少期から二人の姉と細々と芸能活動を続けていたジュディは1935年、13歳でアメリカの大手配給会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と専属契約を結び、ショービジネスの世界で本格的に活動を開始します。しかし…デビュー早々にしてクビの危機に見舞われます。

当初、MGMはジュディと同年代の若手女優ディアナ・ダービンとも契約を結んでおり、駆け出し女優の卵を2人も抱える必要はないと考えたのです。「あの太った娘を追い出せ」重役からジュディの契約を解除するよう支持を受けたプロデューサーのアーサー・フリード。しかし、実際にフリードがクビのしたのはジュディではなく、ディアナ。

実はジュディは13歳にして既にフリードと性的関係にありました。枕営業した女優に仕事を回すことで有名なフリードが重役の指示を勘違いしたふりをし、ディアナをクビにしたのです。

枕営業でMGMとの契約が確約されたものの、体質的に太りやすく肥満気味であったジュディはMGM側から「スリムでいること」を命じられ、強制的なダイエットを強いられます。当時のハリウッドで「ダイエット薬」として使用されていた覚醒剤アンフェタミンを常用、体型維持に努めます。アンフェタミンは当時合法であり、10代前半のジュディは周囲に勧められるまま、なんの疑いももたず痩せ薬として常用し続けていました。

当然、オズの魔法使撮影中も薬物摂取は続き、名曲「虹の彼方に」を歌うシーンの撮影時は覚醒剤の影響で完全にハイになっているという説もあります。

17歳にしてスターの名声を手にしたものの、その栄光は長くは続きませんでした。

「彼女と寝ていないプロデューサーはいない」と噂されるほど、ジュディの実生活は奔放でスキャンダルに満ちたものでした。1941年に19歳で作曲家のデヴィッド・ローズと結婚、翌年妊娠しますが、撮影に差し支えるという理由でMGMから中絶を命じられます。

その後、性的嗜好の不一致により1943年に離婚。20歳を過ぎた頃から、長年の薬物中毒の影響が表面化し始めます。撮影への遅刻や出勤拒否を繰り返すようになり、撮影に支障をきたす「お騒がせ女優」のレッテルを貼られてしまいます。

薬物治療のための入退院を繰り返しすものの、徐々に精神を病み、自殺未遂や撮影を放棄するなど問題行動により主役を相次いで降板させられます。

1950年にはMGMとの契約を解除され、ショックで再び自殺未遂を起こし、私生活は荒れに荒れました。

1954年にはハリウッド復帰を賭けた久々の映画出演作「スタア誕生」でアカデミー主演女優賞にノミネートされるも、同映画制作元のワーナー・ブラザースは、ジュディの撮影中の遅刻や出勤拒否などの問題行動に伴う制作費の増大を問題視し、受賞に向けたキャンペーンを展開するどころか「彼女は二度起用しない」と宣言。

その結果、最有力候補であったジュディを抑えグレース・ケリー主演女優賞を受賞します。熱演作の受賞を逃した失意により、ジュディの私生活は再び荒れはじめ、薬物中毒はさらに悪化。数度の自殺未遂を起こしています。

そして1963年を最後に女優・歌手として表舞台から姿を消し、1969年2月、滞在先のロンドンのバスルームで睡眠薬の過剰摂取により47年の短い生涯を閉じました。

ジュディの娘で女優兼歌手として活躍するライザ・ミネリは後に「母はハリウッドに殺された」と発言しています。

カンザスから竜巻で飛ばされ、魔法の世界へと運ばれたドロシーを演じたジュディ。しかし彼女が13歳で足を踏み入れた現実の世界はファンタジーとは程遠い大人の欲望が渦巻く世界でした。

同性愛に対する偏見が強かった60年代当時のアメリカで、父親が同性愛者であり自身もバイセクシュアルであったジュディは同性愛者に対して理解を示す数少ない著名人の1人でした。

現在、同性愛解放運動の象徴として用いられるレインボーフラッグは、ジュディの持ち歌「虹の彼方に」に由来しています。

若くして名声を手にし、生き急ぐかのように破滅的な人生を歩んだジュディ。弱冠13歳にしてハリウッドの大人の欲望にまみれた世界に翻弄されたため、精神的に不安定で生涯に5回の結婚と離婚を繰り返しました。

まさにショービジネス界の犠牲者ともいえる彼女の生き様を知ると、スクリーンの中で無邪気な微笑みを浮かべるドロシーの姿になんとも哀しい思いが込み上げてきます。

プレビュー画像:©︎Pinterest/lottereinigerforever.tumblr.com

【ゾッとする真実】「オズの魔法使」で虹の彼方にを天真爛漫に歌うドロシー しかし映画の裏事情を知り背筋が凍った