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びっくり

難病を持つ女性がスピーチをはじめると 観衆は笑った すると彼女が口にした言葉は…

皆さんは「感動ポルノ」という言葉を耳にしたことがありますか?この言葉はオーストラリア人ジャーナリスト & 障害者人権活動家の故ステラ・ヤングが考案した造語です。これは我々の社会における多数派が、障がい者を「人々に感動を与えてくれる存在」としか認識していないのではないか?というステラの問題提起を表現した言葉で、彼女が出演したTEDでの約10分のスピーチを観るとその真意を理解することができます。

それでは、まずこちらの動画(画面右下の設定→字幕から日本語字幕付き)をご覧ください。

「私はビクトリア州のとても小さな田舎町で育ちました。ごく普通の至って地味な家庭です。学校へ通って、友達と遊び、妹たちとケンカもしました。このような具合に全てが『普通』でした。私が15歳になった時のことです。地元のコミュニティの代表者が私の両親の元を訪れ、私を地域の『達成賞』にノミネートしたいと言いました。そのとき、両親はこう答えました。

『とてもありがたいお話ですが、ひとつ大きな問題があります。娘にはなんの「功績」もありませんよ』と。

確かに両親の言う通りでした。私は学校に通い、良い成績を収め、放課後には母の経営する美容院でお手伝いをしていました。そして『バフィー〜恋する十字架〜』や『ドーソンズ・クリーク』といったテレビドラマをよく見ていました。そう、達成賞とは無縁の生活です。両親が言ったのはまったくの正論だったのです。私は並外れたことなど、何ひとつしていなかったのです。何も。障がいというものを考慮しなければ、功績と言えるようなことは何も達成していなかったのです。

YouTube/TED

それから月日は流れ、私はメルボルンにある高校で2年目の教師生活を迎えていました。11年生向けの法律の授業で、20分程経った頃でしょうか。1人の男子生徒が手を挙げて、私に尋ねました。

『先生、講演はまだですか?』

『何の講演?』と私は訊き返しました。だって名誉毀損について、もう20分も説明していたのに…。すると彼は言いました。

『何か、感動するようなスピーチですよ。車椅子の人が学校に来ると、人を感動させるような話をするでしょう? いつもは大講堂でだけど』

これが私にとっての転機でした。その生徒が今まで出会った障がい者は全員『感動的な話をする人』という存在だったのです。でも、私たちはそうではありません。もちろん、これは彼の責任ではありません。多くの人は障がい者を想像したとき、教師や医者やネイルアーティストを思い浮かべないものです。私たちは普通の人ではないと思われています。他人を感動させ、鼓舞するための存在なのだとしか…。

実際、私がこうやってステージの上へ車椅子に乗って登場した時、みなさんは私が『感動的な話』をするのだろうと、どこかで期待していたのではないでしょうか?ですよね?紳士淑女のみなさん、残念ながらみなさんをがっかりさせなければなりません。私はあなた方を感動させるためにここにいるのではありません。私たちは障がいに関して、今までずっと騙されていたとお伝えするためです。

YouTube/TED

そう私たちは嘘を教え込まれてきたのです。障がいは悪いことで、マイナスである。だから障害と共に生きる人は、特別な人ということになります。でも本当はそうではありません。障害は悪いことではないのです。そして、障害があるからといって、あなたが素晴らしい人間だというわけでもありません。過去数年間、SNSの発達によって、この手の嘘はより広く伝えられてきました。みなさんも、このような画像を見たことがあるのではないでしょうか。

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『ネガティブな態度こそ、この世で唯一の障がいだ』

うーん…。ほかにも、こんな画像とか。

YouTube/TED

『言い訳は無用だ』
なるほど。こういうのもあります。

YouTube/TED

『諦めるまえに、まずやってみろ!』

これらはほんの一例に過ぎませんが、こういったイメージは世の中にあふれています。みなさんも両手のない少女がペンを口にくわえて絵を描いている写真や、義足で走る子供の写真を見たことがあるでしょう。
こういう画像はネット上に大量に存在し、私はそれらを『感動ポルノ』と呼んでいます。

もちろん『ポルノ』という言葉はわざと使いました。なぜならこれらの写真はある特定のグループに属する人々を、ほかのグループの人々の利益のためにモノ扱いしているからです。障がい者を、健常者の利益のために消費の対象にしているからです。

先ほどお見せした写真の目的は、人を感動させ、鼓舞し、やる気を引き出すこと。つまり『自分の人生はうまくいってないけど、もっとひどい人がいる』と思わせるためのものです。『あんな大変な人生を送っている人もいるんだ』と。

では、もし自分がその立場になったらどうでしょう? 私は見知らぬ人に話しかけられたことが何度もあります。彼らは『あなたは勇敢だ』とか『元気をもらった』とか言います。私が人の前に立って話をするようになる前のことですが、毎朝起きて自分の名前を覚えているだけで、褒められました。

これは人をモノ扱いする行為です。先ほどお見せしたような画像は、健常者が良い気分になれるように、障がい者を可哀想な存在としてモノ扱いしています。自分の抱えている問題が大した困難ではないと、違う角度から見るためです。もちろん障がい者の生活には、それなりの困難がつきまといます。乗り越えなければならないことだって、沢山ありますし。でも私たちが克服しなければならないことは、みなさんが考えるようなたぐいのものではありません。身体の障がいは関係ないのです。

私は『障がい者』という言葉を意図的に使っています。なぜなら、私たちの身体や病名よりも、私たちの生きる社会のほうがより強い『障がい』になっていると感じているからです。私はこの身体で長い年月を過ごました。自分なりにとても気に入っています。必要なことは自分でできますし、みなさんと同じように、自分の身体の持つ可能性を最大限活かすことを学んできました。先ほどお見せした写真の子供たちも同じです。彼らは何も特別なことはしていません。彼らの身体でできる最大限のことをしているだけなのです。では、障害者をモノ扱いして、こうした画像をシェアするのは、正しいことだと思いますか?

YouTube/TED

『あなたの姿に感動した』と言う時、人はそれを褒め言葉として使っていると私は思っています。でも、どうしてそう言わざるを得ないのかも知っています。それは私たち障がい者が、障がいと共に生きることが素晴らしいことだというイメージが作られてきたからです。でも本当はそんなことはありません。みなさんが今考えていることもわかります。私がここで感動話を全否定すれば、こう思うでしょう。『じゃあステラ、あなたはほかの人を見て感動することはないの?』

もちろん、私だって感動します。ほかの障がい者の姿からいつも感銘を受けています。でもそれは、自分が彼らよりも恵まれていることに浸って、感動するわけではありません。

私が感動するのは、例えば落とした物を拾うのに、バーベキューのトングを使う素晴らしいアイデアを教えてもらった時。車椅子のバッテリーから、携帯電話を充電できるという画期的な裏技を学んだ時もそうです。天才的ですね。私たち障がい者は、互いの精神力と忍耐力を学びあっています。身体的特徴や病気に対してではなく、私たちに特別な業績を期待し、モノ扱いするこの社会に対抗するための知恵です。



YouTube/TED

私が痛感しているのは、今まで語られてきた障がいについての嘘は、大いなる不正だということです。この嘘が私たちの人生をより生きづらいものにしているのです。『ネガティブな態度こそが、唯一の障がいだ』というさきほどの言葉。あれがくだらないことはすぐにわかります。どれほど笑顔を振りまいても、階段をスロープに変えることなどできないからです。

テレビで愛想を振りまいても、聴覚障がい者のために字幕がつくことはありません。本屋の中でどれだけ前向きな姿勢を示そうが、本が点字になるなどあり得ないのです。

私は障がいが例外としてではなく、普通のこととして扱われる世界で生きていきたいと望んでいます。部屋で『バフィー〜恋する十字架〜』を見ている15歳の女の子が、ただ座っているだけで何かを達成したと思われることのない世界で生きたい。朝起きて名前を覚えているだけで喜ばれるような、程度の低い期待をされることのない世界。そしてメルボルン高校の11年生が、新しい先生が車椅子に乗っていてもまったく驚かない世界を生きたいのです。

障がいそのものは、何も特別なことではありません。でもあなたの障がいに対する意識について考えることは、あなたを特別な存在にしてくれるでしょう。ありがとうございました」

YouTube/TED

いかがでしたか?障がい者を感動の対象とする誤った風潮は「24時間テレビ」を見ても分かる通り、日本にも根深く存在します。こうした固定観念を根本から変えるのには、どうしても時間がかかってしまいますが、もしかすると情報化が進む今がその時なのかもしれません。

ステラ・ヤングは2014年12月にこの世を去りました。ご冥福をお祈り申し上げます。

プレビュー画像:©︎YouTube/TED